こんなにもカメラの存在があたたかいなんて!
あまり知らない子供たちに(ときには大人にも)出演料を要求されることもあるし、靴を投げつけられることもある。しかし、カメラが決定的に暴力とならないのは、子供たちの側にもそれ相応に暴力のなかで生きているという自負があるからなのだろうか。
彼らはひたすらカメラに向かって話しかけてくる。仲間どうしで声を掛け合うときも、近くにシンナーを吸ってる奴がいるときにも。一人で親に反抗したり、学校に遅刻して行ったりするときも。立派な車で弟たちの前に凱旋するときや、人の話を聞かずにとうもろこしを投げ捨てるときだって。飯を食ったり、喧嘩したり、歌って踊るときにも、常にカメラを意識している。
時には、色目をつかって誘ってくる彼女たちさえいる。自然に振舞っているのは、犬やアヒルや牛くらいだろう。(いや、犬だって見事な合いの手を入れてくれた!)
しかし、カメラは恐ろしいものだ。冒頭や、その後何度か引用される水浴びのシーンから、ひっくり返った荷車の上で実況する子供たちのシーンまで。他にも細かいところや音声的な部分まで。明らかに意識的なレヴェルから日常的で無意識なレヴェルまで、そこには演出された部分が入ってくるし、逆に非人間的なあらゆるものが映り込んでしまう。そう、決して開けてはいけない扉だって!
そして隠された部分。『阿賀に生きる』の三年間にさんざん喧嘩した友との別れ。それぞれの道を歩みながらも、『阿賀の記憶』で再び集い、病に倒れつつもさんざん話し合ったこと。ケニアに送られてきた友からの数々の手紙、その死。そして、子供たちに気遣われながらの撮影。
この映画はその隅々まであたたかさに満ちている。
私たちは、そのあたたかさを全身で受け止めることができるだろうか。愛と反抗と、そして恐怖に堪え得る勇気を!いったい、別れ際に放たれた少年の言葉にどうやって答えるべきだろうか。
「お別れの祝福を!日本に帰るのなら、誰でもいいから一人連れてってくれよ!」
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