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change la vie , change le monde
アテネで1Aから4Bまでをまとめて観る。


                  ~…~   ~…~   ~…~


――感情は高度で繊細に物質的だ  ルネ・シャール


やはり映画なんて純粋な目の楽しみだ。 編集機のフィルムを巻く音のリズムも心地よく、ストローブに言わせれば、耳と頭脳も働かせるべきだったっけか。 飽きずに画面に釘づけになってしまった。

私には賛成できないわ、人間が全然ないんだもの、と言う女性に対してゴダールは答える。
――ヌーヴェル・ヴァーグとはそういうものだったんだ。 作家主義とは、作家ではなく、作品なんだよ。
それなら、あなたには心がないのですね。
――人が撮れるのは心ではない、お嬢さん、仕事なのだ。

例えば、ひとつ映画を観たとして、観る前と後で何も変わらない人がいれば、その人は観た作品を自意識で塗り固めて、自分に合わせて好きに解釈してしまっているのだろう。
映画が1秒間に24コマの死と再生であるならば、観る側も、それに伴って自身の細胞の死と再生を繰り返している。 脳のシナプスの繋がり方にしても確実に変化しているだろう。 人間の体のなかでは、形を変えない砂の城を通り過ぎていく砂のように、無数の分子が常に細胞を組み替えているのだから。
問題は、自分の体験したことを、どれだけ深く体験しなおせるかである。 自意識や理性をあてにしない冒険。 可能性は全ての人に対して開かれている。

ゴダールは答える。 
――まず作品があり、それから人間なのです。

作家主義の間違った解釈には気をつけるべきだ。 監督の名前にこだわりすぎると、フィルムから離れてしまうだろう。

観た映画を書き記すのにはどうしたらいいか。

映画を観てから5分後の自分と半年後の自分は、すでに別人となってしまっている。 その時々に体験しなおした映画も別のものとなっているはずだ。 その時の自分という一回性について言うなら、世界に対して向けられるフレームが無数にあるように、その映画に対する切り口だって無数に存在している。 

フィルムという物質とそれを撮る人間、文字という物質とそれを書く人間、言葉という空気の振動としての物質とそれを話す人間、人とオブジェとの関係性。 そこに生ずるドキュメントの性質。

ひとつの映画に対して、いつも同じに捉えようとするなんて! 理性の縛りのなかでしか働かない頭なんて!

捉え方は無数にあるし、書き表し方だって無数にある。 日記風に? 箇条書に? 詩的に? 散文風に? テマスティックに? 物語風に? 

一度書いた映画について、もう一度書くことだってできる。 例えば、あたたかさに満ちた映画として捉えたことのある 『チョコラ!』 を、何を喋っているかわからない人間にカメラを向け続ける、究極の冒険映画として捉えなおすことだって。  

ゴダールがやろうとしていることは、今さら言うまでもなく、映画のオブジェとしての解放である。
自意識や理性に縛られない、フィルムそのものの解放である。 
ゴダールという個体としての視点、生まれ落ちてきた映画たちという全体としての視点、その交差するところの歴史性。
そこには、おもちゃ箱をひっくり返してぶちまけたような楽しさがある。 ある性的な解釈がなされてもなお、その縛りを簡単に飛び越えていく破棄力を持った、あのとびっきりの詩のように。


――僕がいつの日にか、君たちの出生の秘密を教えてあげるよ   A・ランボー 



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高円寺ドキュメンタリー祭にて
23時から文芸坐で。電車に乗り間違えて少し遅れる。
久しぶりのオールナイト、朝まで5時間14分の体験。


                  ~…~   ~…~   ~…~



3時前に高円寺で飯を食う。 地下鉄にゆられ高田馬場で下車。 少し歩いて“金泉湯”で風呂を浴び、4時半から早稲田松竹で。 
途中、久々の眠気に襲われ、銭湯と映画館のコンボに相性の悪さを感じる。 


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一昨年の映画祭で見事に観逃していた作品を、レイトショーにて。

過去の作品でロードショーされたものについては、カネフスキーもまた吉祥寺でやるようだし、ロジェのリバイバル上映もすでにユーロスペースで決まっている。 キシェロフスキの初期作品集についてはDVDでレンタル化されている次第だ。
件の映画祭で上映された作品についていえば、 『三重スパイ』 がかかっているのをしばしば見かけるし、 『海の沈黙』 も今度神保町でやるのを観に行くだろう。 けれど、サッシャ・ギトリの 『あなたの目になりたい』 にべッケルの 『最後の切り札』 は?! ドワイヨンの 『誰でもかまわない』 は?!! もうかかることはないのだろうか? 幸運にもその3作品の映画体験が、体のなかに組み込まれているからまだマシなものの、後からビデオで観たグレミヨンの 『曳舟』 は、嵐の夜にオートバイで港をぶっ飛ばすシーンなど暗い場面が黒く潰れていたし、完全に観逃してしまったオフュルスの 『マイエルンからサラエヴォへ』 やレーナルトの 『最後の休暇』 には下手すると一生めぐり会わない可能性だってある(それでも資本主義は、甘く観客の願望を叶えてくれるかもしれないけれど)。

例えば、ある日 『罪の天使たち』 を観たことによって、同じユーロで上映されていたロマンポルノ 『後ろから前から』 を観逃していたり、上のヴェーラでやっていたブニュエルの 『アンダルシアの犬』 ジャン・エプスタンの 『三面鏡』 ヒッチコックの 『舞台恐怖症』 を観逃していたら? 同じ日に都内の映画館で上映されていたタイトルを挙げればキリがないだろうが、フランス人の言葉を借りるまでもなく、気をつけないといけないのは、我々は常に何かに遭遇しそこなっているという事実だ。 ある種のユートピア的に、常にスケジュールどおりどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に対して、取捨択一を迫られつつも、少しでもアンチ・ユートピストとしての行動の可能性を模索し続けることが必要である。


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(正直に告白すると鈴木則文の映画が頭をチラついていたけれど) 単体のアクションをできるだけ排しつつも、修道女たちの全体の動きの中、画面手前に顔や体をむけ台詞を喋るヒロイン達の姿は上質なミュージカルのようだった。 そして、ちょっとした挿入でも動きで繋ぎまくっていた! etc...!!!

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プロフィール

オオツカ

Author:オオツカ
フーリエ主義の私立探偵。
東京を舞台に日夜事件を追跡中。

ある種のユートピアと化して、常にどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に抗して。


日々の魔術の実践、あるいは独身者の身振りとしてのblog。



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