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change la vie , change le monde
とにかく、おもちゃ箱をひっくり返したような映画なので、今はただ不毛にも断片や連想を箇条書きにしておくことしかできない。

やはりまずは・・・誰もが思い当たるだろう、レナート・ベルタと組んだときのストローブとユイレのような画面について。
『労働者たち、農民たち』、『放蕩息子』、『あの彼らの出会い』、『アルテミスの膝』に出てくる、トスカーナの自宅近くの小さな谷。そこに向けれられたカメラには、絶対に見えてはいけないようなものまで平気で映りこんでしまっている。『こおろぎ』でひたすら映し出される森の風景には、鈴木京香や山崎努といった人物が、その恐ろしさを具現化して、平気でスクリーンに登場してしまう。

――観客は物語を辿るために融通性、寛容性、注意力をもつ必要があります。 (ダニエル・ユイレ)
――多くの物語があり、登場人物たちは幽霊のように現れては消えるから。自分の目と耳と頭脳を使う必要がある!チャンドラーの小説やコルネイユの戯曲でも同じです。 (J・M・ストローブ)
――もしも何かの映画で、航空映画でもいいのだが、一人の幽霊が現れて予告なしに筋を全部ひっくり返してしまい、再び闇の中に消えてしまったらどうだろう・・・ (A・キルー)

スタンダードサイズの画面いっぱいの鈴木京香の顔のアップ。背景の部屋に置かれた椅子や机。ドア越しにテラスに並んで座る二人と手前に垂れるカーテンのレースの透け具合。木々の間に見えるさらに奥の木々。山並に岬や空の夕日といった風景。それらすべてが平等に美しい!
よって最初に盲目の男を包んだ光がどれだけ控えめだろうと、すべての観客は強烈に反応してしまうだろう。それにしても、銃声が聞こえた瞬間、山崎を一周してどこかに飛んでいった蝶々は何だったのだろうか!

だからといって、その姿勢においてストローブとユイレの模倣を徹底しているわけではない。
むしろ、ゴダールのように軽やかにすっ飛んでいく。その徹底のしなさは、もしかすると日本人的な甘さなのだろうか。しかし、その甘さが内在しているからこそ、威厳と平穏に満ちたかに見える鈴木京香の存在は、自宅前の坂を下った瞬間(この坂を車で下るシーンもすばらしい!)、破滅と再生に向けて転がっていく。
この坂だけでなく、階段も何度も上り下りされるが、その存在の振れ幅は物語が後半に進むほど顕著になっていく。庭師が梯子を登るシーンだって見逃せない!これは極上のホラー映画であるとともに、極上のサスペンス映画でもあるのだ!

外での社交場として登場する、オリヴェイラの『家宝』に出てくるような不思議なバー。
京香は、漁師たちが集まる楽しいところだと説明していたが、この閉鎖的な空間で安藤政信と再会する。唯一といっていいほどのハレの場で、ここに男を連れ込むことで女の存在はさらに歪んでゆく。京香と安藤の関係は?ラストに出てくる別のカップルのように、かつて山崎の隣にでも引っ越して来たのだろうか。そして最終的には、このハレとケの関係は完全に入れ替わってしまう。

再び、ストローブとユイレ。
『歴史の授業』のように、車内後部座席に固定されたカメラで、フロントガラス越しにひたすら前方の風景を映し出す。ただ、その風景の美しさだけでなく、一度目はそれに加えられた自転車の運動とミラーに移る京香の表情の変化において、二度目は目的地の存在とそれがどこだかわからないという点においてすばらしい。
『エンペドクレスの死』のように、突然流れ出す、カナキリ声みたいな下手くそな音楽。とともに、四つの山並のショットの連続モンタージュ。その繰り返しが高速になるに至っては、もはやただの緑と黒の洪水である。そして、観ていた風景がただの記号でしかなかったのだと思い知らせれる。

心情説明のナレーションが四回。そのうち三回が誰だかわからない男の声。残る一回も、もはや京香の声だか疑わしい。

とにかく、カメラワークが凄い!
 ・かかってきた電話を投げ捨て、靴を拾うまで。京香の全身がすっぽり入る位置から見事なバストショットになる位置までの移動。カメラの微妙なパン。そのときの柱の位置!
 ・洞穴に向かう途中、崖に設けられた足場を下から捕らえたショット。安藤の連れの女が木と木の間でちょうど立ち止まったりする。
 ・天使を海から引き上げる前のシーン。自宅前の坂道から、クレーンのある岸を眺める海岸通までのパン。その間、それぞれちがう位置とタイミングで出てきた十人ほどの人物が一列に並ぶまで。京香が一人遅れて二番目に迎えられる。
すべてのシーンについてもっと詳しく記述したいが、憶えているだけでも時間がかかりすぎるし、そのためには何度も見直さなければいけない。

さらに
 ・車の疾走。画面の手前で一度、絶妙な位置で止まり、走り去る。次のショットで今度は逆から、工事中のトンネルの風景を完全に隠す形で、カメラの前をドアの部分が過ぎ去る。
 ・船の疾走。乗っている人たちだけが風景の下半分を過ぎ去る。

最後に、自宅のパーティーでの島唄のシーン。
『アンナ・バッハ』のような趣向だろうか。しかし、ワンショット=ワンシークエンスではなく、演奏する女性の膝から上のアップと部屋全体が入るショットが交互に、音声と動きが完全に合致した形で繰り返される。さらに、全体のショットで前に座っていた安藤と連れの女が、アップのショットで画面を被うようにして入り込み、そのまま立ち去る。

さて、一度もその名を呼ばれることもなく死んだり、また現れたりしていた、山崎努演じる盲目の男は、鈴木京香やその他すべての人たちにとって“天使=キリスト=神”だったのだろうか。
しかし、そう断定するのはつまらない。自意識に合わせて映画的な体験を固定しようとするよりも、その記憶を再体験しながら、連想に耽ったり、人と話したり、書き綴ったりするほうが遥かに健全で現実に即している。そのためには、観るという行為そのものがより大切になってくるはずだが、そこに対応する“撮る=観せる”という行為について、青山真治はとてつもなく自覚的なのではないだろうか。
映画祭や特別な機会にしか目に触れることのないような種類の映画を撮ってしまったのも、もしかすると半ば確信犯ではないのかとまで思ってしまう。結局姿を現さなかったらしいが、『こおろぎ』の前に『放蕩息子』の上映とトークショーを企画していたのも、観た後になってもっともだと思った。
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こんなにもカメラの存在があたたかいなんて!

あまり知らない子供たちに(ときには大人にも)出演料を要求されることもあるし、靴を投げつけられることもある。しかし、カメラが決定的に暴力とならないのは、子供たちの側にもそれ相応に暴力のなかで生きているという自負があるからなのだろうか。

彼らはひたすらカメラに向かって話しかけてくる。仲間どうしで声を掛け合うときも、近くにシンナーを吸ってる奴がいるときにも。一人で親に反抗したり、学校に遅刻して行ったりするときも。立派な車で弟たちの前に凱旋するときや、人の話を聞かずにとうもろこしを投げ捨てるときだって。飯を食ったり、喧嘩したり、歌って踊るときにも、常にカメラを意識している。
時には、色目をつかって誘ってくる彼女たちさえいる。自然に振舞っているのは、犬やアヒルや牛くらいだろう。(いや、犬だって見事な合いの手を入れてくれた!)

しかし、カメラは恐ろしいものだ。冒頭や、その後何度か引用される水浴びのシーンから、ひっくり返った荷車の上で実況する子供たちのシーンまで。他にも細かいところや音声的な部分まで。明らかに意識的なレヴェルから日常的で無意識なレヴェルまで、そこには演出された部分が入ってくるし、逆に非人間的なあらゆるものが映り込んでしまう。そう、決して開けてはいけない扉だって!
そして隠された部分。『阿賀に生きる』の三年間にさんざん喧嘩した友との別れ。それぞれの道を歩みながらも、『阿賀の記憶』で再び集い、病に倒れつつもさんざん話し合ったこと。ケニアに送られてきた友からの数々の手紙、その死。そして、子供たちに気遣われながらの撮影。

この映画はその隅々まであたたかさに満ちている。

私たちは、そのあたたかさを全身で受け止めることができるだろうか。愛と反抗と、そして恐怖に堪え得る勇気を!いったい、別れ際に放たれた少年の言葉にどうやって答えるべきだろうか。
「お別れの祝福を!日本に帰るのなら、誰でもいいから一人連れてってくれよ!」

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オオツカ

Author:オオツカ
フーリエ主義の私立探偵。
東京を舞台に日夜事件を追跡中。

ある種のユートピアと化して、常にどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に抗して。


日々の魔術の実践、あるいは独身者の身振りとしてのblog。



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