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change la vie , change le monde
ヘルツォークのことは全く知らなかったので、『東京画』に出てくるヴェンダースの2人の友人のうちどっちだろうと思っていると、『アギーレ』の最初の画で、即座に東京タワーにいた人物だということが呑みこめた。
そのとき、彼は「本当のイメージ」について語っていたと思うのだが、リアリズムでなくてリアリティについて考えるとき、人は何を見るのだろうか。

正直、どうしても“構図の切り取り方”みたいなものに惹かれてしまう者としては、ただ“撮っただけ”のような画には反応しかねるのだけれど、現代のぺルーのジャングルにある激流を背景に、時代的な鎧を着て、褐色のはずのラテン人を演じている色白のドイツ人が2,3人並んでいる光景、『アギーレ』のこれらのショットは素晴らしかった。
『フィッツカラルド』においても、山を上ろうとしている船を後ろに、霞のなかクラウス・キンスキーがたたずむ構図など、放心しそうになる場面は数多い。実際の撮影では、あらゆる問題が山積みだったらしいが、部族間の衝突が絶えなかったというインディオたち、そのアクシデントとしての不穏な空気さえも、物語には奇跡的に組み込まれている。
それにしても、すべてが徒労に終わるこのフィルムの結末はなんともベッケル的なのだろうか!実際にこんな体験をするのは嫌だが、それが映画だとすべて納得させられてしまう。暗い映画館に押し込められて何かを夢見るとき、観る者は確実に手に入れるものがあるのだと実感した。

重ねてそれにしても、褐色で金髪に青い瞳の(シャルル・クロスみたいだ!)件の怪優の、動物の愛で方およびその投げ飛ばし方は天才的だ。
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日仏で『ヒロシマモナムール』を観に行くために休みをとった後で、その前にはまだ残っていたはずのチケットが手に入らないという悲劇に合い、「やっぱり自分には不釣合いだったのか。」なんて落ちこんだりしたものの、それでも『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』と『コッポラの胡蝶の夢』という似たような邦題の2本立てを用意してくれていた東京の街の懐の深さに抱かれる。

『レッドバルーン』はもう一度観たいと思っていたので、この機会に再び観れて本当によかった。ホウ・シャオシェンにとってパリの街とはどういうものだったのだろうか。

まず、車の往来や人ごみといった喧騒が静かに画面に充満しているのが素晴らしい。その中を平気で歩きまわる登場人物たち。冒頭の男の子(めちゃくちゃカコイイ!そして動きが可愛すぎ)がひたすら話しかけるシーンに始まるどこまでも勝手気ままな風船との共演や、ほぼ固定での長まわしかと思いきやあくまで流動的なシーンの数々など、中心がころこと転がっていくそのフレームにはスクリーンの形を感じさせない力がある。完全な世界とは一般に多くの場合球形をしているもので、ニーチェのツァラトゥストラ曰く、「存在の車は永遠に廻る。彼処なる球は此処を廻って廻転する。いたるところに中心がある」のだ。
主人公の一人が北京から映画を習いに来た留学生で、劇中でもモラリスの『赤い風船』を素材に男の子とデジカメを回しだすのだが、パリの街中を漂う大きな球形の赤い風船は、物語のどの位置で(劇中か劇中劇の中なのか)男の子に寄り添うのだろうか。ちなみに、その女学生が風船の撮影方法の種明かしをしていたり、モチーフの一つである人形劇で操り手が姿を曝していたりと、物語自身はその中で何の境目も持たずに進んでいく。
カーテンの透け具合の素晴らしさも健在だったが、ガラス越しに風景が重なり続けるショットの多用も物語に説得力を与えている。はてさて、ガラスや鏡に映りこむ世界やスクリーンの上の世界とは、夢か現か。いずれにせよ、たった一つしかないこの世界の中で、普段私たちが何気に生活している場所から直接に地続きとなって存在しているのは確かである。いつでも街へ繰り出す準備をしておこう。

二時間ものの映画を続けて観てしまう。『チェチェンへ アレクサンドラの旅』もそうなのだが、何故こんなにも監督の名をタイトルに持ってきたがるのだろう。

『コッポラの』は『ホウ・シャオシェンの』後で観ると、さすがにショットに力が足りず安っぽくチャチな感じもしたが、画面が横や逆さになるシーンやマルタ島の波、たまに見せる幾何学的で無重力な構図は素晴らしかった。
それにコッポラの使う女優は、皆がみんな童顔ぎみの綺麗な人ばかりで最後まで楽しい。
『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』で断然贔屓にしてしまう監督として、所々のうまさや話の落とし方に騙されてもいいと思った。
冒頭に現れる一本の木立は、そこがアジアでもヨーロッパでもないどこか近くて遠い国であるのかと錯覚させる。

風景が圧倒的にすばらしい。木々を揺らす風、そこに見慣れたような景色、さらに廬山の字幕が出てきたとき、それが中国だということをやっと飲み込める。兵隊達がときおり笑顔らしいものを見せ、仕事をこなし隊列を組んで遠征する姿に、悲壮さよりも清々しさを感じてしまうのは、のどかな音楽によるものではないはずだ。
固定ショットによる空間の切り取り方にもはっとする。そこで演じられる兵隊達の活動は、カメラに投げかけられる目線からだけでなく、全体的な動きからも観るものを感動させる。加えてその画面の後ろで覗きこむ現地人の不思議そうな顔。
戦車の列、車の疾走、電線を引く兵士達、痩せて倒れ込む軍馬、月夜の見張り番、破壊された武漢の路地裏と猫に鳥たち。三木茂の撮影は、テレビのなかった時代の画面の美しさを目の当たりにさせてくれる。歩兵隊が馬を引き連れ大陸の荒野を行くシーンは、ジョン・フォードの『幌馬車』さながら映画でしかなかった。

もし亀井文夫から反抗的なものを読み取ろうとするのなら、そのことすら警戒し、より反抗的な姿勢をとるべきだろう。“理性による主体的な判断”などより、フィルムそれ自身に反応してしまう感性のほうが、遥かに現実に即しているのだから。

滅多に観れないこのドキュメンタリー作家の特集は、今月一杯フィルムセンターで。
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オオツカ

Author:オオツカ
フーリエ主義の私立探偵。
東京を舞台に日夜事件を追跡中。

ある種のユートピアと化して、常にどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に抗して。


日々の魔術の実践、あるいは独身者の身振りとしてのblog。



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