change la vie , change le monde
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始まる直前何も考えずにボケーっとしていると、最初のショットで「これはヤバい。」と不意打ちを喰らってしまった。女の子(サンドリーヌ・ボネール)が劇の台詞を朗読しだすのだが、そこに漂う画面いっぱいの張り裂けそうな緊張感は、もしかするとスクリーンでしかわからないのかも知れない。

その女の子には、男でも惚れてしまいそうな美少年の彼氏がいるのだが、肝心の相手とはプラトニックな関係を通しつつも行きずりの英国水兵に体を許してしまう。彼は親友のボーイッシュな娘と付き合いだし、彼女も仲間内の他の男子と恋仲になる。夜遅くまで遊び呆けた後には、家庭内での母親との激しい喧嘩が待っていて、ピアラ自身が演じる父親との距離も終始微妙だ。
原題を直訳すると“私たちの愛に”だが、そこには兄も入れた家族の問題も含まれているだろう。彼女の家族を中心としてもいろいろな付き合いがあり、物語の最後イギリスに留学するまでの過程を通し、スクリーンの中ではそこに存在する空気が何度も火花を散らす。

日仏では満席だったものの『彼女の名はサビーヌ』は来春劇場公開されるみたいだし、今回の特集ではドワイヨンの『ピューリタンの女』も観とかなければいけない。

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『関の彌太ッぺ』に併せてトークショーがあるというので、隣の阿佐ヶ谷まで歩いていった。初回は満席で、早めにチケットを取るという自分の学習能力のなさに唖然としたものの、トークショーだけ入れたのでコーヒーを飲んで待っていると、近くで山根貞夫が若い衆を相手にしゃべっていた。鈴木則文はまだ来ないのかと思っていたが、どうやら中で他の観客といっしょに泣いていたらしい。

素晴らしかった。観たのはその次の回だったのだけど、他に体験した人を探して「めちゃくちゃおもしろかった!」と言えば、その一瞬だけでも通じ合ってられる映画だ。彌太ッぺと森介が再開する雨の竹薮でのチャンバラは、とにかく凄まじい。その後に街道辻で落ちあうシーンも好きだ。
トークでは、東映で「無能な監督を追放せよ!」と若手が署名を集めたという、将軍を持ち上げようとした頃のエピソードや、ロケハンで木槿を最初に見つけたのは誰か、さらには山根貞夫が庭で木槿を育てたという話が聞けた。『彌太ッぺ』で時代劇衰退の流れを止めようとしたらしいが、成功していたら「トラック野郎なんて撮っていなかった」という鈴木則文の顔は寂しそうだった。

祖父が『トラック野郎』好きで、ちょうど死んだ時刻あたりに大学の先輩たちと佐渡編をビデオで観ていたことを通夜で叔父さんに伝えたという筆者の体験も、もし時代が変わっていたのなら存在しなかっただろう。ましてラピュタの任侠特集で山下耕作というのもなかった。
時代劇で"殉ずる愛”を貫きたかったという将軍や鈴木則文も、結局は映画に殉じている。

阿佐ヶ谷での任侠特集のことは、『山下耕作の世界』にそのきっかけが詳しいが、『緋牡丹』や『昭和残狭伝』に、『極道』シリーズや『まむしの兄弟』、『総長賭博』などなど、まとめてスクリーンで見れるのは楽しみだ。 *藤純子も後にトークショーをやったらしい。
ただ観ていただけなのに、それだけで後に尾を引く画を撮ってしまうのはなんなのだろうか。
他にも映画を観れば観るほど、その記憶は薄れず強烈さを増す一方で、さすがは加藤泰である。

冒頭のチャンバラから役者の動きが違うのだが、頭に残っているのは半次郎と忠太郎のそれぞれの母(年はだいぶ違うけれど)の横顔である。忠太郎の母の小暮実千代の場合、そこにいたるまでワンショット・ワンシークエンスの長いやりとりを含めての感動があるのだが、半次郎の母の夏川静江の何気ない横顔、シネスコサイズの画面の端に切れそうに据えられた顔にそれだけで反応してしまうのは、おばあちゃんっ子だからだという理由だけではないはずだ。

路上の歌で稼ぐ老婆をたちの悪い客から助ける、ひたすら長まわしのシーン。そこで手前の小屋越しにカメラが微妙に移動するのに震えたり、小暮実千代の切り盛りする料亭の前の路地裏、右手の塀のところに小便除けのちっちゃな鳥居の絵があり、奥の方に少しだけ見える通りを横切る籠や車、竹馬に乗った子どもなど、物語の展開する後ろで繰り広げられる画面の躍動が忘れがたかったりするのである。

最後の別れのシーンは、"リメイク”という形のなか加藤泰が選んだ"崩し”の部分でもあるのだろうが、やはり単純に良く、『大人はわかってくれない』や『ピストルと少年』を連想してしまった。母親とは結局交わることのできなかった錦之助の姿に共感してしまう。

トークショーでは、加藤泰がイタリアに"洋行”したときの裏話が聞けて笑ってしまった。大阪人としての加藤泰という蓮実重彦の考察もおもしろくて、とても充実した一日だった。
DVD
シネマヴェーラ
DVDで『ミレニアム・マンボ』を観た。
スー・チーのナレーションが10年後の視点から2001年を語り始めたとき、現在がその10年後に追いついてしまう前に、観逃さずに済んでよかったと思った
流動的なフレームの中で、それに輪をかけて動きまわる登場人物たちに息を詰めていると、まさにこれが21世紀の映画なのだと感動してしまう。それは勝手な思い込みなのかも知れないが、先日、映画祭でやったドワイヨンの『誰でもかまわない』を連想してしまった。そこで観た、沼縁の隠れ家のなか同じ向きで窓から外を窺う、ジェラ―ル・トマサンとクレマンティーヌ・ボーグランの顔が幾度か重なりあう瞬間は一生忘れられない。画面の背景の干潟の人影にふいと目をやるトマサンも忘れがたい。
そのあと、遅巻きながら日仏のドワイヨン特集に足を運んだのも、スクリーンの魔力に当てられたからだろう。映画は魔力に満ちている。画面を生成する要素が刻一刻と変化するとき、それに立ち会う観客の存在自身、“生”そのものも“変わって”しまうのだから。

『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』は映画館で観ることができた。
最初は、なんで邦題をわざわざ英語にしているのかと気になったが、まるでドキュメンタリーのような画面を観ているうちにそれも忘れてしまった。役者の動きを執拗にスクリーンに映し出し、それを時々赤い風船が見守っている。アパルトマンのシーンがひたすら長いのだが、はっとすると自分が今映画のなかに一緒にいるのではないかと思ってしまった。
もとはアルベール・ラモリスの『赤い風船』だが、こっちはメリエス寄りであろう傑作だ。冒頭、「ボードレールのパリ!」という言葉が浮んでくるような(それしか知らないからだけど)美しい朝焼けを見下ろすと、そこの石畳に、これまた歩き方の素敵な男の子が出てきて、階段を下りる途中で風船を見つける。そこから風船と男の子の付き合いが始まるのだが、しばらくして街中に突然ガラス売りが現れたかと思うと、風船に命が宿り勝手自由に動きだす。この瞬間がたまらない。それまでのなんともない日常のなかに、より強固な現実が顔を出し、なんの不自然さもなくその後の日常となってしまう。それが街を舞台に繰り広げられるのだから奇跡的である(蚤の市まで散策してしまう!)。ラモリスのは今月末から下高井戸、ホウ・シャオシェンのは来月に池袋でもやるらしいので観ていなければ必見だ。
ふたつの物語の落ちていく先は一見正反対のようだが、現実だと思われているものに対する立ち位置、その捉え方にはどこか似たようなところがある。少なくとも誰もが、観る前と後では確実に何かが変わってしまうのに気づくだろう。

『ミレニアム・マンボ』の10年後から現在を思い出すとき、その間に作られた幾つかの映画は、メリエス的なものとリュミエール的なものを矛盾なく見わたせるような一点、至高の一点に向かって開かれている。もしそんな映画に人が集まるのなら、これから先“世界を変える”ことだってありえるのかも知れない。ついそんなことを夢想してしまう。先日、有楽町の朝日ホールで行われた座談会で、ドワイヨンに向けられた満場の熱烈な拍手が、いつまでも鳴り止まずに未だ胸の中で響いている。
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オオツカ

Author:オオツカ
フーリエ主義の私立探偵。
東京を舞台に日夜事件を追跡中。

ある種のユートピアと化して、常にどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に抗して。


日々の魔術の実践、あるいは独身者の身振りとしてのblog。



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