change la vie , change le monde
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一昨年の映画祭で見事に観逃していた作品を、レイトショーにて。

過去の作品でロードショーされたものについては、カネフスキーもまた吉祥寺でやるようだし、ロジェのリバイバル上映もすでにユーロスペースで決まっている。 キシェロフスキの初期作品集についてはDVDでレンタル化されている次第だ。
件の映画祭で上映された作品についていえば、 『三重スパイ』 がかかっているのをしばしば見かけるし、 『海の沈黙』 も今度神保町でやるのを観に行くだろう。 けれど、サッシャ・ギトリの 『あなたの目になりたい』 にべッケルの 『最後の切り札』 は?! ドワイヨンの 『誰でもかまわない』 は?!! もうかかることはないのだろうか? 幸運にもその3作品の映画体験が、体のなかに組み込まれているからまだマシなものの、後からビデオで観たグレミヨンの 『曳舟』 は、嵐の夜にオートバイで港をぶっ飛ばすシーンなど暗い場面が黒く潰れていたし、完全に観逃してしまったオフュルスの 『マイエルンからサラエヴォへ』 やレーナルトの 『最後の休暇』 には下手すると一生めぐり会わない可能性だってある(それでも資本主義は、甘く観客の願望を叶えてくれるかもしれないけれど)。

例えば、ある日 『罪の天使たち』 を観たことによって、同じユーロで上映されていたロマンポルノ 『後ろから前から』 を観逃していたり、上のヴェーラでやっていたブニュエルの 『アンダルシアの犬』 ジャン・エプスタンの 『三面鏡』 ヒッチコックの 『舞台恐怖症』 を観逃していたら? 同じ日に都内の映画館で上映されていたタイトルを挙げればキリがないだろうが、フランス人の言葉を借りるまでもなく、気をつけないといけないのは、我々は常に何かに遭遇しそこなっているという事実だ。 ある種のユートピア的に、常にスケジュールどおりどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に対して、取捨択一を迫られつつも、少しでもアンチ・ユートピストとしての行動の可能性を模索し続けることが必要である。


                  ~…~   ~…~   ~…~


(正直に告白すると鈴木則文の映画が頭をチラついていたけれど) 単体のアクションをできるだけ排しつつも、修道女たちの全体の動きの中、画面手前に顔や体をむけ台詞を喋るヒロイン達の姿は上質なミュージカルのようだった。 そして、ちょっとした挿入でも動きで繋ぎまくっていた! etc...!!!

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サリンジャーの死亡記事を目にする。

隠遁生活のなか、そうとうな作品を書きためていたはず。彼は、その物語を公開することが可能になるような遺言を残しているのだろうか…

それでなくとも、世間は膨大に編まれたであろう “グラース・サーガ” を望まずにいられない。自分のためだけに書かれたというその文章は、もはやただ書かれるためだけに書かれたオブジェとして存在しているのではないだろうか。そこには書くという行為を通してドキュメントの要素も介在するはずである。

もしかすると、『源氏物語』 や 『千夜一夜物語』 あるいは 『ユリシーズ』 『失われた時を求めて』 さらには 『大菩薩峠』 に 『非現実の王国で』 etc...のような長編をまた一つ人類が手に入れるかも知れない。

東海岸の隠者に思いを馳せて。

帰省につきビデオカメラをまわしてみる。新しく購入しようかとも思ったけれど、最近のハンディカムはソニー以外すべて16:9の画面しか撮れないようで・・・友達から借りていたテープを使用する型の3:4の画面で長崎へと帰る。

いまごろの長崎と言えば、盆は盛大に弔う風俗で、みんな墓に爆竹や矢火矢、「ドラゴン」のような噴出タイプの花火などを持ち込んで、暗くなるまでうるさくやるので、親戚やご近所さん、高校のときの同級生家族と顔を合わせたりと、そこが一種の社交場となる。それに、15日は初盆ならどこでも精霊船をこしらえて、爆竹などと一緒に帰ってきていた魂を送り出す。
他にもぺーロン大会があったり、原爆や終戦の記憶など話題にはことかかないはずである。

ただただ弟やばあちゃん、母親など家族を撮っていただけなのだが、いい画を得るためにはそれなりの戦略と演出が必要だろう。うまい話を引き出すためにも、あたりまえだが会話の運びを考えながらでないといけない。

劇的な瞬間をテープに焼きつけるためには、こちらの存在も投げ出さなければならない。

今日までに撮れたのは、車を運転しながら近況を話す弟、椅子に座ってテレビを観続ける祖母、県庁坂まで精霊流しを見学しに行った母とその妹母娘などなどである。

ホームビデオとして撮られたテープなのだが、近い将来にでもかけがえのないものとして、観る側に変化を与えることになるのだろうか。その変化は、もし起こるのだとしたら、理性の側からではまだ完全に預かり知ることのできない、即物的な現実の法則に従うものだろう。

ちなみに2日間、墓や喪服に身を包んで精霊船を先導する人たちを撮り続けたのだが、次の日から熱を出して寝込んでしまった。もともと体調が悪かったのでまったくの偶然だろうが、一般の人でさえむやみに肖像権を気にしだすのだから、霊だってやたらと撮られるのは嫌なのかも知れない。
自覚的であろうとなかろうと、決定的に何かが変わってしまう体験。なんでもないように過ごしているうちにも、ちょっとした瞬間にそんな出来事と遭遇してしまう。例えそれが予兆だとしても。誰かが存在するということは、そんな冒険に身を委ねることではないだろうか。

ラモリスの『赤い風船』がメリエスよりであろうなんていう、あやふやな言い回しは意味がなくなってしまった。
そして、『白い馬』。ずっと言葉にできずにいたこの作品についても、記憶をたどりながら、もう幾度も再体験してみなければいけない。
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オオツカ

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フーリエ主義の私立探偵。
東京を舞台に日夜事件を追跡中。

ある種のユートピアと化して、常にどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に抗して。


日々の魔術の実践、あるいは独身者の身振りとしてのblog。



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