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change la vie , change le monde
久方ぶりの映画館。

          
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地味で素敵なカメラワークが一変、主人公である初老の従軍記者が軍需工場で演説するシーンに泣いてしまう。

その前に、戦地から離れた後方部にて、戦意昂揚映画を撮る撮影所を訪れるシーンがあり、ゲルマンのドキュメンタリーチックな作風との対比をなしたりもしているが (そこに挿入される少佐の戦場の回想シーンもこれまた素敵)、演説のシーンに受けた衝撃は、そういった批判精神や労働者やファシズムなんていったイデオロギーから来るものでもなく、ワーグナーを大音量で流しながら空爆するルーカス大佐やノルマンディや硫黄島の人が無尽蔵に死んでいく上陸作戦のシーンに受けた黒いユーモア風の号泣ものの衝撃でもなく、もっと純粋な、クレショフやエイゼンシュタインといった単語が頭によぎる必要もないような、オブジェとしてのフィルムのコラージュ、モンタージュそのものの威力をまともに喰らってしまった結果の衝撃だった。

壇上で前に立たされるしがない初老の少佐、画面の奥まで見えなくなるほどの群衆、目を輝かせた男の子たち、頭巾を被った婆さん、ワイド画面の右側にやや仰角のバストアップで演説する少佐 (時々画面の左に掲げた右手がちらちらと映る)。 スクリーンの持つ魔力の強烈さ! 自意識の欠片もなく、ただただ無意味に涙が流れ出してしまった。



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アテネで1Aから4Bまでをまとめて観る。


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――感情は高度で繊細に物質的だ  ルネ・シャール


やはり映画なんて純粋な目の楽しみだ。 編集機のフィルムを巻く音のリズムも心地よく、ストローブに言わせれば、耳と頭脳も働かせるべきだったっけか。 飽きずに画面に釘づけになってしまった。

私には賛成できないわ、人間が全然ないんだもの、と言う女性に対してゴダールは答える。
――ヌーヴェル・ヴァーグとはそういうものだったんだ。 作家主義とは、作家ではなく、作品なんだよ。
それなら、あなたには心がないのですね。
――人が撮れるのは心ではない、お嬢さん、仕事なのだ。

例えば、ひとつ映画を観たとして、観る前と後で何も変わらない人がいれば、その人は観た作品を自意識で塗り固めて、自分に合わせて好きに解釈してしまっているのだろう。
映画が1秒間に24コマの死と再生であるならば、観る側も、それに伴って自身の細胞の死と再生を繰り返している。 脳のシナプスの繋がり方にしても確実に変化しているだろう。 人間の体のなかでは、形を変えない砂の城を通り過ぎていく砂のように、無数の分子が常に細胞を組み替えているのだから。
問題は、自分の体験したことを、どれだけ深く体験しなおせるかである。 自意識や理性をあてにしない冒険。 可能性は全ての人に対して開かれている。

ゴダールは答える。 
――まず作品があり、それから人間なのです。

作家主義の間違った解釈には気をつけるべきだ。 監督の名前にこだわりすぎると、フィルムから離れてしまうだろう。

観た映画を書き記すのにはどうしたらいいか。

映画を観てから5分後の自分と半年後の自分は、すでに別人となってしまっている。 その時々に体験しなおした映画も別のものとなっているはずだ。 その時の自分という一回性について言うなら、世界に対して向けられるフレームが無数にあるように、その映画に対する切り口だって無数に存在している。 

フィルムという物質とそれを撮る人間、文字という物質とそれを書く人間、言葉という空気の振動としての物質とそれを話す人間、人とオブジェとの関係性。 そこに生ずるドキュメントの性質。

ひとつの映画に対して、いつも同じに捉えようとするなんて! 理性の縛りのなかでしか働かない頭なんて!

捉え方は無数にあるし、書き表し方だって無数にある。 日記風に? 箇条書に? 詩的に? 散文風に? テマスティックに? 物語風に? 

一度書いた映画について、もう一度書くことだってできる。 例えば、あたたかさに満ちた映画として捉えたことのある 『チョコラ!』 を、何を喋っているかわからない人間にカメラを向け続ける、究極の冒険映画として捉えなおすことだって。  

ゴダールがやろうとしていることは、今さら言うまでもなく、映画のオブジェとしての解放である。
自意識や理性に縛られない、フィルムそのものの解放である。 
ゴダールという個体としての視点、生まれ落ちてきた映画たちという全体としての視点、その交差するところの歴史性。
そこには、おもちゃ箱をひっくり返してぶちまけたような楽しさがある。 ある性的な解釈がなされてもなお、その縛りを簡単に飛び越えていく破棄力を持った、あのとびっきりの詩のように。


――僕がいつの日にか、君たちの出生の秘密を教えてあげるよ   A・ランボー 



年が明けてからすぐに撮りたいテーマの撮影に入る。何日か放置した後、丸一日かけて編集終了。並行して、去年の夏に地元に帰ったときのテープを編集する。

その間、吉祥寺での『ライブテープ』のレイトショーも終わっていたし、新百合のワイズマン祭もすべて見逃した。気づけば映画館に足を運ぶのは今年初になってしまう。


                    ~…~ ~…~ ~…~


見逃したと言えば、去年のカネフスキーも『死ね、動くな、蘇れ!』以外見逃した。
『ひとりで生きる』アンコール上映の最終日に駆け込む。

――画面いっぱいの雪原に民謡を歌う声。馬を曳く男が、「ちょっとまってくれ!もう一回!」で巻き戻し。舞い上がる吹雪に合わせホワイトアウトでカットを入れる場面から始まる。

etc...etc...!!!

一番好きだったショットは、北方の街に逃れ、前作で死なせた女の子の妹(カンケイアリ)からの手紙を読むところ。画面右上へと広がる海。面して工場の外のでっかいパイプとなりの細い通路で。やや俯瞰。通りすがりの同い年くらいの同僚二人に絡まれ、憎まれ口で返答。手紙に小便をかけさせ、相手のコサック帽で液体をすくいそいつの頭にかぶせる。風に吹かれる手紙をよそに逃げた二人を追いかけていく…。

etc...etc...!!!

最後は、前作にも出てきたかと思われる風景。画面右前方から左奥へと伸びる浜での独白。次のショットで半ば溺れるかのように泳ぐ主人公をアップで捉え静止画。 Fin.


                    ~…~ ~…~ ~…~


偶然にもホールで知人に会う。前々から観ようと心に決めていたロジェが遅くまでやっていて、その人が続けて駆け込むと言ったので便乗。

――『あこがれ』の冒頭のような生理的反応。ふたりの主人公が並んでカンヌの海岸通りをベスパで走る。カメラは正面から。オープニングのフレンチポップが鳴り終わるとともに被写体が砂浜の方へと切れる。『ブルージーンズ』のクレジット。

とにかく、繋ぎが上手すぎる!動きで繋ぎまくっている!ヤバイ。

カンヌの街中や浜辺で、ちょっとした役者を忍び込ませて、ほとんどゲリラで撮っているはずなのに… 繋ぎさえしっかり繋げればこんなにも立派な映画になるなんて。キラキラ光って透き通っている。

そもそも、タイトルからしてアメリカへの憧れがひしひしと伝わってくる。
そう言えば去年観たなかでも、ドゥミのだって『ロシュフォール』や『シェルブール』でさえアメリカや映画それ自体に対する思いが常にちりばめられているし、『ローラ』なんてピッカピカの白いアメ車に、冒頭と最後のアイリスが最高だ!(『天使の入江』も観光客賑わう南仏の浜辺で始まり、終わったっけか) さらに、ピアラの『愛の記念に』の主人公も、アメリカ水兵に初体験を許してしまった。 
その辺の純粋な感情プラスコンプレックスには、もう涙するしかない。

最後は、同じ海岸通りを歩くふたりを後ろから。こちらも、『大人は判ってくれない』よろしく静止画で。 Fin.


――『パパラッツィ』の編集の巧みさには圧巻。




とにかく、おもちゃ箱をひっくり返したような映画なので、今はただ不毛にも断片や連想を箇条書きにしておくことしかできない。

やはりまずは・・・誰もが思い当たるだろう、レナート・ベルタと組んだときのストローブとユイレのような画面について。
『労働者たち、農民たち』、『放蕩息子』、『あの彼らの出会い』、『アルテミスの膝』に出てくる、トスカーナの自宅近くの小さな谷。そこに向けれられたカメラには、絶対に見えてはいけないようなものまで平気で映りこんでしまっている。『こおろぎ』でひたすら映し出される森の風景には、鈴木京香や山崎努といった人物が、その恐ろしさを具現化して、平気でスクリーンに登場してしまう。

――観客は物語を辿るために融通性、寛容性、注意力をもつ必要があります。 (ダニエル・ユイレ)
――多くの物語があり、登場人物たちは幽霊のように現れては消えるから。自分の目と耳と頭脳を使う必要がある!チャンドラーの小説やコルネイユの戯曲でも同じです。 (J・M・ストローブ)
――もしも何かの映画で、航空映画でもいいのだが、一人の幽霊が現れて予告なしに筋を全部ひっくり返してしまい、再び闇の中に消えてしまったらどうだろう・・・ (A・キルー)

スタンダードサイズの画面いっぱいの鈴木京香の顔のアップ。背景の部屋に置かれた椅子や机。ドア越しにテラスに並んで座る二人と手前に垂れるカーテンのレースの透け具合。木々の間に見えるさらに奥の木々。山並に岬や空の夕日といった風景。それらすべてが平等に美しい!
よって最初に盲目の男を包んだ光がどれだけ控えめだろうと、すべての観客は強烈に反応してしまうだろう。それにしても、銃声が聞こえた瞬間、山崎を一周してどこかに飛んでいった蝶々は何だったのだろうか!

だからといって、その姿勢においてストローブとユイレの模倣を徹底しているわけではない。
むしろ、ゴダールのように軽やかにすっ飛んでいく。その徹底のしなさは、もしかすると日本人的な甘さなのだろうか。しかし、その甘さが内在しているからこそ、威厳と平穏に満ちたかに見える鈴木京香の存在は、自宅前の坂を下った瞬間(この坂を車で下るシーンもすばらしい!)、破滅と再生に向けて転がっていく。
この坂だけでなく、階段も何度も上り下りされるが、その存在の振れ幅は物語が後半に進むほど顕著になっていく。庭師が梯子を登るシーンだって見逃せない!これは極上のホラー映画であるとともに、極上のサスペンス映画でもあるのだ!

外での社交場として登場する、オリヴェイラの『家宝』に出てくるような不思議なバー。
京香は、漁師たちが集まる楽しいところだと説明していたが、この閉鎖的な空間で安藤政信と再会する。唯一といっていいほどのハレの場で、ここに男を連れ込むことで女の存在はさらに歪んでゆく。京香と安藤の関係は?ラストに出てくる別のカップルのように、かつて山崎の隣にでも引っ越して来たのだろうか。そして最終的には、このハレとケの関係は完全に入れ替わってしまう。

再び、ストローブとユイレ。
『歴史の授業』のように、車内後部座席に固定されたカメラで、フロントガラス越しにひたすら前方の風景を映し出す。ただ、その風景の美しさだけでなく、一度目はそれに加えられた自転車の運動とミラーに移る京香の表情の変化において、二度目は目的地の存在とそれがどこだかわからないという点においてすばらしい。
『エンペドクレスの死』のように、突然流れ出す、カナキリ声みたいな下手くそな音楽。とともに、四つの山並のショットの連続モンタージュ。その繰り返しが高速になるに至っては、もはやただの緑と黒の洪水である。そして、観ていた風景がただの記号でしかなかったのだと思い知らせれる。

心情説明のナレーションが四回。そのうち三回が誰だかわからない男の声。残る一回も、もはや京香の声だか疑わしい。

とにかく、カメラワークが凄い!
 ・かかってきた電話を投げ捨て、靴を拾うまで。京香の全身がすっぽり入る位置から見事なバストショットになる位置までの移動。カメラの微妙なパン。そのときの柱の位置!
 ・洞穴に向かう途中、崖に設けられた足場を下から捕らえたショット。安藤の連れの女が木と木の間でちょうど立ち止まったりする。
 ・天使を海から引き上げる前のシーン。自宅前の坂道から、クレーンのある岸を眺める海岸通までのパン。その間、それぞれちがう位置とタイミングで出てきた十人ほどの人物が一列に並ぶまで。京香が一人遅れて二番目に迎えられる。
すべてのシーンについてもっと詳しく記述したいが、憶えているだけでも時間がかかりすぎるし、そのためには何度も見直さなければいけない。

さらに
 ・車の疾走。画面の手前で一度、絶妙な位置で止まり、走り去る。次のショットで今度は逆から、工事中のトンネルの風景を完全に隠す形で、カメラの前をドアの部分が過ぎ去る。
 ・船の疾走。乗っている人たちだけが風景の下半分を過ぎ去る。

最後に、自宅のパーティーでの島唄のシーン。
『アンナ・バッハ』のような趣向だろうか。しかし、ワンショット=ワンシークエンスではなく、演奏する女性の膝から上のアップと部屋全体が入るショットが交互に、音声と動きが完全に合致した形で繰り返される。さらに、全体のショットで前に座っていた安藤と連れの女が、アップのショットで画面を被うようにして入り込み、そのまま立ち去る。

さて、一度もその名を呼ばれることもなく死んだり、また現れたりしていた、山崎努演じる盲目の男は、鈴木京香やその他すべての人たちにとって“天使=キリスト=神”だったのだろうか。
しかし、そう断定するのはつまらない。自意識に合わせて映画的な体験を固定しようとするよりも、その記憶を再体験しながら、連想に耽ったり、人と話したり、書き綴ったりするほうが遥かに健全で現実に即している。そのためには、観るという行為そのものがより大切になってくるはずだが、そこに対応する“撮る=観せる”という行為について、青山真治はとてつもなく自覚的なのではないだろうか。
映画祭や特別な機会にしか目に触れることのないような種類の映画を撮ってしまったのも、もしかすると半ば確信犯ではないのかとまで思ってしまう。結局姿を現さなかったらしいが、『こおろぎ』の前に『放蕩息子』の上映とトークショーを企画していたのも、観た後になってもっともだと思った。
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プロフィール

オオツカ

Author:オオツカ
フーリエ主義の私立探偵。
東京を舞台に日夜事件を追跡中。

ある種のユートピアと化して、常にどこかで何かしら映画がかかっているという都市の状況に抗して。


日々の魔術の実践、あるいは独身者の身振りとしてのblog。



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